はじめに

右手首が痛いので、下書きの文章からChatGPTに文書を書かせました

余裕のなさと攻撃性

先日、彼女と食事をしていたときに、こんな話になった。

「お金がなさそうな人ほど、他者に攻撃的な傾向がある気がする」

少し乱暴な言い方かもしれないが、たしかにそう感じる場面はある。何かしらに強い偏見を持っていたり、すぐに他人のせいにしたり、必要以上に刺々しかったりする人がいる。

もちろん、すべての人がそうだと言いたいわけではない。お金がなくても穏やかな人はたくさんいるし、逆にお金があっても余裕のない人もいるだろう。

ただ、その背景にあるものとして「余裕のなさ」は確かにある気がしている。そしてその余裕のなさを生む大きな要因のひとつが、「お金がないこと」なのではないか、と思った。

攻撃性の正体は「貧しさ」そのものではなく「余裕の欠如」かもしれない

ここで言いたいのは、「お金がない人は攻撃的だ」という単純な話ではない。

むしろ問題なのは、精神的な余白がなくなってしまうことなのだと思う。生活に不安がある。将来が見えない。選択肢が少ない。常に何かに追われている。そういう状態が続けば、人はどうしても視野が狭くなる。

すると、他人の言動に過敏になったり、物事を冷静に受け止められなくなったりする。自分の苦しさを外に向けてしまい、偏見や他責、攻撃的な態度として現れることがある。

つまり、攻撃性の原因は「貧しさ」そのものではなく、「余裕を失った状態」なのではないだろうか。

お金がなくても穏やかな人は、何を拠り所にしているのか

一方で、お金がなくても穏やかで、落ち着いていて、他人にやさしい人もいる。そういう人たちは、何を心の拠り所にしているのだろうか。

ぱっと思いついたのは、宗教のような存在だった。

以前、茨城県のある人口減少地域にある共同墓地を訪れたことがある。そこは決して豊かそうな場所には見えなかったが、墓地はきれいに掃除され、多くの墓石が丁寧に手入れされていた。

あの光景には、少し考えさせられた。経済的な豊かさとは別のところに、人が心を保つための土台があるのかもしれない。

先祖を大事にする気持ち、地域とのつながり、信仰、習慣、共同体への帰属意識。そういったものが、目に見えない「余裕」の源になっていることは十分あり得る。

私にとっての拠り所は、たぶん金融資産なのだと思う

とはいえ、私は目先の金のことばかり考えてしまう俗物である。

そんな自分にとって、心の拠り所になるものは何かといえば、やはり金融資産なのだろう。積立NISAや新NISA、iDeCoなどを通じて、評価額で3000万円ほどの金融資産がある。それらを使えば、住宅ローンもなんとか完済できる見込みがある。

さらに、団信があるおかげで、死んだり、がんになったりした場合には住宅ローンがなくなる。そう考えると、「最悪の事態でもなんとかなる」という感覚を持てる。

この「なんとかなる感」は、まさに余裕そのものなのだと思う。心の安定は、思想や信仰だけでなく、かなり現実的なお金の裏付けからも生まれる。

お金があっても余裕がない人はいる

ただ、話はそれほど単純ではない。

お金を持っていても、常に不安そうで、怒りっぽくて、他人に厳しい人はいる。そういう人を見ていると、余裕のなさの原因は本当に人それぞれなのだと感じる。

承認欲求なのかもしれないし、孤独なのかもしれない。健康不安や家庭の問題かもしれないし、過去の傷や劣等感かもしれない。

つまり、お金は余裕を支える大事な要素ではあるけれど、それだけですべてが解決するわけではない。お金があれば安心できる人もいれば、それでも満たされない人もいる。

他責思考や偏見に流されない人でありたい

最近、他責思考が強く、他人に偏見を持ち、攻撃的になっている人を見るたびに思う。

「ああはなりたくないな」と。

もちろん、自分だっていつでも安全圏にいるわけではない。余裕がなくなれば、人は簡単に醜くなる。だからこそ、他人の姿を見て終わるのではなく、自分もそうなりうる存在だと自覚していたい。

俗物なので簡単ではない。たぶん私はこれからも、お金を心の支えにして生きていくのだと思う。

それでも、お金の有無にかかわらず、他人を攻撃せず、偏見に飲まれず、少しでも余裕を持てる人間でありたい。そう思うのである。