はじめに
私の苗字は割と珍しい。仮に「不惑」家としよう。
インターネットで雑に調べる限りでは日本に12000人くらいしかいないようだ。
私は「不惑」家最後の男子であり結婚願望がないため「不惑」家は私で途絶えることになる。
特に感傷はないが、氏族がどういうルーツなのかを調べてみることにした。ここ数ヶ月ちょこちょことやってきたことである。
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戸籍などから読み解けた寒村の貧困
現代の茨城県某市番外村。「番外」という昔は番外城の城主であった歴史ある農家(?)の息子を養子にした「不惑」家だったが、苗字の珍しさから、それなりの農家だと思っていた。
毎朝30分だけ仕事の前に、取得した戸籍に書かれた事実を「いつ、誰が、何をした」という形式で年表にしていったのだが、それが完成した。また、Mapple法務局地図ビューアで地権者を確認した。
それを組合わせると、「不惑」家はかなり暮らし向きが悪かった、端的に言うと貧しかったことがわかった。それなりの農家だったのかもしれないが、あの時代はそもそも農家は大地主を除いてすべからく貧しかったのかもしれない。
今回は「番外」家次男で不惑家に養子にはいった曾祖父である「不惑はじめ(仮称)」の生涯について考察したことをアウトプットする。
「番外」家から「不惑」家へ
番外家の次男である「はじめ」は明治13年(1880年)、18歳のころ不惑家の養子となった。不惑家には養父「零朗兵衛」と養姉である「ゼロ子」がいた。
翌年に養父である零朗兵衛が亡くなっている。その後、10年以上、「はじめ」はゼロ子と1400平米(0.14ha)ほどの小さな畑で農業など日々の営みを続けていたのだと思われる。
この他に田畑などの農地を持っていたかはわからない。また、不惑家の屋敷であった通りは、付近の施設から当時は番外村の中心地の近くであったと考えられる。したがって、何らかの商売をしていた可能性もゼロではない。
この時期には水道もなく、番外村付近に鉄道が通っていなかった。ほぼ江戸時代さながらの生活を続けていたはずだ。江戸時代と異なるのは、税金だ。江戸時代は、年貢として現物をおさめていたが、明治期以降、田畑や屋敷に地租(今でいう固定資産税)がかかり、それらを現金で納めなければならなかった。江戸時代さながらの生活であるにも関わらず、急に資本主義に巻き込まれ、多くの農家が困窮したという。
こういった生活は明治25年、養姉であるゼロ子が亡くなるまで続く。
ここで一つ、下衆な話をすると「はじめ」とゼロ子は7歳差である。婿養子ではないが、20代の男女が同じ屋敷に二人で住んでいたのだから、何もない訳はなく、肉体関係はあったのだろう。姉と弟といえど血の繋がりはないのだ。本人たちの中では、もう一緒になっていた気分でいたのかもしれない。
結婚し子宝に恵まれるも娘を「身売り」
実家の「番外」家との繋がりはあったのかもしれないが、孤独になってしまった「はじめ」は、明治26年(1893年)、33歳のころ、別村にある農家の次女を妻として迎える。そして妻との間に、一郎、二子、三郎(生まれてまもなく死亡)、四郎(私の祖父)、五子をもうける。
大正2年(1913年)長女である二子が、9歳で養女に出されている。養女に出された先は「東京市浅草区千束」である。
これだけだといい家に養女に出されたように思えるかもしれない。しかし、勘が良いかたは気付いただろう。この付近には浅草花街や吉原遊廓がある。
私は、これは「身売り」である可能性が高いと考えている。この時期に、この地域には鉄道が通っておらず、東京へのアクセスが非常に悪かった。茨城県の寒村から、唐突に東京の良い家への養子縁組の話があるのは非常に不自然である。
身売りにはいくつかのパターンがあり、人身売買が禁止されているため抜け道として、経営者の養女とするパターンがあったと聞く。
そして、客をとれる年齢まで下働きさせながら教育を施し、客をとれる年齢になったら客をとらせるのだ。
「はじめ」が騙されたのか、わかっていたのか、それはわからない。ただ、口減らしをしなければならない程の経済状況だったことは推測できる。
こういったことがあったのは、知識としては知っていた。知っていたのだが、自分の家系でそれが起こっていた可能性があることに正直、ゾッとした。
小作農への転落
Mapple法務局地図ビューアで本籍地の地権者を確認した。地権者は「不惑」でも「番外」でもなかった。また、相続登記がなされておらず、「誰のものかわからない土地」になっていた。大正10年(1919年)に土地および畑が売買された記録がある。
おそらく「はじめ」が土地を売ったのではないかと推測する。なぜ不惑家が自作農であると考えているかというと、養子を迎え入れているからである。土地を守る必要がない小作農であれば、養子を迎え入れる必要はないだろう。
ここで自作農から、小作農への転落した。地租を払わなくて良いかわりに、地主に小作料を納めなければならない。
その後、「はじめ」の長男である一郎が亡くなっているが、戸籍には本籍地にて死亡という記載がある。
また、持ち家すらも売り払って、しかしそのまま住み続けていたことが。今で言うリースバック(自己所有の物件を売りまとまった金銭を得たうえで、以後は賃料を支払うこと)である。負のスパイラルと言ってよいだろう。
ただし、茨城県は比較的、地主と小作農の関係が良好であったと言われている。したがって、これの土地の売買は地主からの援助だった可能性を否定しきれない。要するに、将来土地・屋敷を差し出すかわりにまとまったお金を貸すよ、みたいな話であったかもしれない。
本籍地にて死亡
昭和2年、「はじめ」は本籍地で死亡している。享年は満65歳、数えで67歳。地域では名家であろう「番外」家から「不惑」家の養子となり47年。娘を売り、小作農に転落し、亡くなる時にいったい何を思ったのだろうか。
その前年、四郎(祖父)の子(伯父)が東京都で生まれている。
このことから、いつからか四郎は東京に出稼ぎに出ていたのだろう。関東大震災の復興需要で東京は人手が足りなかったはずだ。
祖父については悪い話しか聞かないし、書く気はない。戸籍に書かれた事実を見るだけでも、滅茶苦茶な人であったと感じている。仕送りなんかもしていなかったのではないか。
五子も戸籍の情報から東京で結婚をしたことがわかっている。
「不惑」本家は二郎が継ぐことになるが、私は直系の子孫ではないため、これ以上、二郎のことを追うことはできない。
ただ、本籍地であった屋敷跡には今は何もなく、田畑は耕作放棄地となっており、竹藪や木々に覆われている。木々に、何か語ってほしいところだ。
おわりに
祖父のことに触れない関係上、もう書くネタがないので当分このシリーズは書けない。書くとしたら茨城へのフィールドワークだが、忙しくてなかなか予定が立てられない。結局、7月の休暇は3日だけだった。せめて週に1度は休もうと思う。
戦前の格差社会について
知識として知っていたことであるが、明治以降、大日本帝国の拡張の裏でこのようなことが多くあったのだろう。二・二六事件を思い出した。今も、あの頃のように格差が広がり、社会が分断されつつあるように思える。
もともと明治以降の農家のうち大地主は会社設立に関わるなど富んでいった一方で、小規模の地主や小作人は貧困に喘いでいた。さらに、朝鮮併合後は外地からの輸入米の影響で米価が下がり、特にコメ農家は更に困窮を極めることになる。その上に昭和恐慌と言われた不況が重なった
二・二六事件では、青年将校たちが徴兵された部下を教育するなかで、このような部下たちの実家である農家の惨状を知り、これらを解決しない限り戦争どころではないという理由で「昭和維新」のため決起したのである。
映画「226」にて徴兵された寒村出身であろう兵卒が安藤輝三大尉にこう言うのだ。
「自分はまだ入隊してたった50日も経ってないのであります。中隊長殿からハッキリお教えいただきたいのであります。昭和維新達成に自分らは、自分ら兵隊は何の関わりがあるのでしょうか」
部下たちの実家である農村の救済のために決起した青年将校たちは、その目的を部下が理解してくれていなかったという皮肉なシーンである。
文中で触れた時期には義務教育は尋常小学校の4年だが、二・二六事件が起こった当時は尋常小学校の6年に伸びている。貧しい農家の生まれの子どもは、そもまま労働力として活用された。また、体格の良い者は徴兵されたのだ。
これは青年将校たちと兵卒の間での、教育格差の結果であると言えよう。
現在の相対的貧困率は15.4%であり日本人の6人の1人が、貧困状態にあると言われている。富の再分配を強化しなければならない中で、分断を煽るような言説で溢れている。
私には、まるで今が戦前のように感じる。
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