私の苗字は割と珍しい。仮に「不惑」家としよう。
インターネットで雑に調べる限りでは日本に12000人くらいしかいないようだ。
私は「不惑」家最後の男子であり結婚願望がないため「不惑」家は私で途絶えることになる。
特に感傷はないが、氏族がどういうルーツなのかを調べてみることにした。ここ数ヶ月ちょこちょことやってきたことである。

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今風な調査のやり方

遺伝子検査

遺伝子検査を受けた。
私のY染色体ハプログループはD1a2aだった。
これは日本の3〜4割を占め、もっとも数が多い「縄文系」とされるハプログループである。
ただそれだけのことだ。東日本に多いが日本全国に分布しているため、何の手がかりにもならなかった。

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生成AIを利用した調査

⚪︎⚪︎藩との関わり

まず、「江戸時代、⚪︎⚪︎藩に在籍した不惑姓の人物」で調べさせたところ、⚪︎⚪︎藩の公式記録には「不惑」氏の藩士は存在しなかった。
AIが参照した文献の調査範囲が江戸初期・中期と幕末に限られているため、江戸後期に出仕して幕末には脱藩またはなんらかの懲罰を受け身分を失ったということも考えられるが、可能性は低いだろう。

この調査からいわゆる「上級の武士」であったことは否定できる。

したがって父からの伝聞である「⚪︎⚪︎藩士であった」というのは誤り・誇張・嘘のいずれかである。もちろん、父が誤り・誇張・嘘が混じった伝聞を聞かされたのかもしれない。誰かを断罪したくて調べているわけではないので、このあたりはどうでもよい。


この結果は、「武士であった」という伝聞を否定できない。
大名直参ではなかったことはわかるが、直参ではない「下級武士」つまり、郷士(半農半士)や大名から見た陪臣(御附家老など上級藩士の家臣)、足軽であった可能性もあるからだ。

これらは正式な藩士ではなく、外側からの調査は困難である。
「○○藩」の藩士システムを理解したうえで、なんらかの方法で古文書を探しそれを読み解かなければならない。歴史学を専攻していた大学生の頃ならまだしも、今は自分でやるのは難しく、専門業者に調査を依頼するしかない。

別のアプローチとしては、なんらかの文書などが残っていないかということだが、それらを持っている可能性がある従姉妹(伯父の娘)の連絡先はわからない。

⚪︎⚪︎市との関わり

次に、「⚪︎⚪︎市 不惑」で調査を行った。
具体的に⚪︎⚪︎市にまつわる歴史・地名・人名などに「不惑」の痕跡を探してもらった。
唯一見つかったのは不動産屋の営業マンに同じ苗字の人がいるという程度だった。墓を譲ったという分家筋は「⚪︎⚪︎市」に住んでいなかったのか、調査範囲を県まで広げるか考えている。
そもそも「⚪︎⚪︎市に墓がある」という伝聞が、誤り・誇張・嘘だったという可能性もあるのだ。

苗字が不惑の武士

次に、地域を限定せず、江戸期に苗字が「不惑」である武士がいたかどうかを探した。
前述の通りこれの調査対象は「藩士」に限られる。
結果、江戸期に4人の苗字が「不惑」の武士がいたことが確認できた。かといって、それが直接先祖なわけがない。ここで疑問をもつ。そもそも「不惑」は武家の氏ではないのでないか。

有名な人物で例えると、坂本龍馬の「坂本家」の本家は「才谷家」である。「才谷家」は商人であったが「郷士株」を取得して下級武士の身分を取得した。それが「才谷家」の分家「坂本」家である。

こういった可能性まで広げるとなるともうお手上げだ。
存在するかどうかもわからない「不惑」以外の氏まで追う気はしない。

江戸時代に不惑を名乗った人たち

「不惑」が武士の苗字ではないとしたらどうか。
江戸時代に「不惑」を名乗った人物の記録を調べた。
江戸時代、苗字帯刀を許されたのは武士階級だけであるが、公式に名乗ることができなかっただけで苗字を持っていた人が多かったのは周知の事実である。
「苗字必称義務令」がでた際に、それをそのまま苗字として届けたパターンが多かったと聞いている。

目の付け所がよかったのか「不惑」を名乗る人物をいくつか見つけることができた。彼らは刀鍛冶であったり、絵師であったりした。正直、武士よりもこの方がロマンを感じる。

戸籍調査

これは今風でもなんでもない、単なる正攻法だ。
自分で取得するのは面倒なので、行政書士に依頼して「不惑」家の戸籍を遡れるだけ遡って取得するよう依頼した。取り揃うまでに数ヶ月かかるらしい。

ここで、今まででてこなかった地名に出会えるだろうか。まだまだ、コタツに入りながらできることはあるだろう。
継続して調べていくことにする。

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